'93〜'94冬 アンデス越えの旅

by DAZ(投稿日:6 Jun 1994)


期間:1993/12/21(火)〜1994/1/1(土)
参加:DAZ
コース概要:=Mendoza−Uspallata−Puente del IncaPte. del Inca−Cristo. Redentor−Los Andes−Santiago=

<はじめに>  一年間温めていたアンデスサイクリングの計画を、先の年末年始休みに実現しました。その旅の記録です。海外を走るのはこれで2度目ですが、出発前の期待と不安は前回以上でした。今思いだすと走っている時もかなり気合が入っていました。リンリンの皆さんには出発前に色々な面で応援して頂き、ありがとうございました。


1日目:12/21(火) 東京=ダラス=マイアミ=
 出発前に旅程と装備メモを部屋に書き残した。万一の場合の書き置きもしとこうかと本気で考えたが、やめといた。気合を入れ直して2時出発。成田までは鈍行で行く。19:05発アメリカン航空ダラス行でまず11時間の飛行。ダラスでは時間が戻ってまだ21日昼である。やたらとでかい空港で、屋内を電気の車が走って人を運んでいる。雰囲気は明るい。約2時間の接続で次のマイアミ行(3時間)はなぜかビジネスクラス(?)の良い席に座れて快適であった。マイアミ空港はむし暑くてうす暗く、なんとなく怪しい雰囲気である。また2時間後、深夜発ブエノスアイレス行きに搭乗する。乗客や係員が一日の間に日本人−白人−黒人−ラテン系と変わっていくのが良くわかる。ブエノスまで6時間。


2日目:12/22(水) =ブエノスアイレス=サンチアゴ=メンドーサ
 今日はサイクリングスタート地点のメンドーサまで行くのだが、マイアミからメンドーサへの直交便はない。またブエノスアイレス国際空港からも便がないため、アルゼンチン−チリ−アルゼンチンというめんどくさい乗り継ぎをすることとなる。マイアミ−ブエノスの飛行機には中or高校生の女の子がいっぱい乗っていて、みんなかわいいというよりはっきり言って美人であり、思わず注目してしまう。
 朝9:50、ようやく南米上陸。カラッ!と晴れており、よーし!と気合が入る。今度はアルゼンチン航空に乗り換えである。どこに並んだらいいかもわからず英語は全く通じなくなり、いろいろ手間取ってチェックINできたのは出発20分前であった。カウンターの係員は皆ちんたらやっていて気をもんだが、これが南米ペースか。サンチアゴまでは2時間だが、ワインっとステーキの昼食がしっかり出た。チャリで越える前に飛行機でアンデスを越えたわけだが、窓から良く見える山脈は、とにかくでかくて雪が多い。地肌は赤茶色に乾いた感じで、どこに道なんかあるんだろうと思わせるが、その美しさに興奮する方が強くて不安感は少し減ったようだ。乗ってる人々も皆、飛行機の窓から山に見入っていた。チリに入ったと思ったらすぐ出国である。2時間の待ち合わせのあと、メンドーサ行(1時間)にのる。
 よ〜〜〜やくついた! 16:30だが日はカンカンに照っている。飛行機を降りると今度は米国団体旅行帰りの女子高生大集団の中にまきこまれた。大声で歌ったり叫んだりして何かものすごく盛り上がっていて、そのパワーには圧倒されてしまう。彼女らの出迎えの家族で小さなメンドーサ空港がごった返していた。タクシーで市内へ行き、最初に見つけた安宿に入る。といっても一泊25ドルなんで決して安くない。6〜7畳ほどの部屋プラスシャワートイレ付き。まだ1ペソも持っていないのだがアルゼンチンは1ドル=1ペソの固定相場制とやらで、宿代はドルでOKだった。さっそく街へ出る。もう5時過ぎなのだが、日は高く、暑い!! 南米=犯罪の巣という先入観を持ってたので、少し緊張して歩く。腹減ってるんだけど、実は私は、ヨーロッパ風にテーブルを出しているカフェとかレストランというのがちょっと苦手で、もう少し泥臭い食堂っぽいのはないかなーと歩き回ったが、ない。レストランのデイナーはどこも9:30からだったので、結局カフェでサンドイッチとビールで済ませた。言葉が全然通じないが、「セルベッサ(=ビール)」だけはピタリと通じて、「セニョール、セルベッサ!」なんて運んでもらうとうれしくなってしまう。この辺りは9時頃ようやく暗くなるようだ。


3日目:12/23(木) メンドーサ連泊
 今日はツーリストインフォメーションで情報収拾である。英語が少しだけ通じてラッキーだった。明日からの道路の距離、標高と、宿のある位置を教えてもらった。あとは街中をフラフラするが、とにかく暑いので2時間毎に宿に戻って休憩する。昼はレストランで、定食を頼むとでっかいステーキが出てきた。他の人々のまねをして、ワイン(ハーフボトル)を注文する。(となりの老夫婦はふつうのボトルを1本ずつ飲みながら食べていた。)酔っ払ってしまったので、2〜4時はシエスタ(昼寝)をした。この時間帯は店や銀行や会社もみんな昼寝をして閉まっている。
 夕方からチャリを組み立て、パッキングをする。この間だけで水を1l飲んだ。サドルのピラーに600ドルを隠して、万一に備える。晩飯はまたステーキを食べる。この国では、主食が肉でありこの後も毎日肉を食べつづけた。パンもあるがほんのツマミという感じである。明日から走るので水を2.5lとパンを買って帰る。宿の兄ちゃんが話し好きというか、日本人が珍しいのか、1時間以上も話をした。こっちはスペイン語がほとんどできず、話かけられたうち1〜2わりしか会話が成立しないのだが、明日からの予定とか、日本では何の仕事をしているとか、目をキラキラさせて飽きずに話してくる。12時すぎになりもう寝ると言うと残念そうであった。


4日目:12/24(金) Mendoza (750 m) − Uspallata (1750 m) 距離 98 km
 6:30起床し、パンを頬張り、いよいよ出発! アンデス山脈にとりつく前に一つ山脈があり、今日はこいつを巻くようにして走る。山脈を巻くまで曇りだったが、昨日みたいに暑いよりいいか。人々はオラ!(やあ!)と声をかけてくれる。空気が乾いていて、やたらとのどが乾く。街を離れ、山脈を巻くとピーカンに晴れてとても暑くなり、半砂漠地帯の道となる。
 今日の宿は56km先のポトレリージョスの予定で、12時頃ついた。朝からひたすらゆるい登りを走って、もう足がつりまくっていた。なーんにもない所だが、何故か小ぎれいなホテルがぽつんと1件だけある。花壇があったりして、小さいけど高級リゾートホテルといった趣で、自分は汗まみれで浮いてしまった。恐る恐る入ってみると、なんと満員で断られてしまった。今日はクリスマスイブだから客が多いのだろうか。それとも汗だらけで汚いからかな?しばし座り込んで途方にくれてしまった。10km手前にも1件宿があったが、結局40km先のウスパジャータならもっと大きい町のはずなので、泊まれる宿もあるだろうと、走ることにした。初日からはまってしまった。少し走ると「あと53km」という表示が出たのでまたショックであった。近くに小さな店があったのでパンと水を調達し、腹ごらえして気を取り直す。ますます暑くなってきたが、しばらく行くと激追い風となって、神様は俺を見捨てていなかった。これはビッグなクリスマスプレゼントだ!と神に感謝しながら走った。道は延々と砂漠地帯に続き、木の一本もない。太陽はギラギラで日焼けと足つりに苦しんだが、なんせ8時過ぎまで十分明るいとわかっているので気持に余裕があった。時々すれ違う車は手を振ったりクラクションで応援してくれた。
 ウスパジャータの2kmほど手前にあった高級ホテルの前で、家族でクリスマスを過ごしに来たという子供達と話をする。話がなかなか通じないが、好奇心はおさえようもないようで、大学生の兄さんをつれてきた。英語が通じたんで子供達の質問攻めを通訳してくれた。アルゼンチンの大学の夏休みは3ケ月だとか、会社員は8〜12時に働き、5時まで昼食と昼寝で、また9時まで働く、とかいう話もしてくれた。このホテルは私には高級すぎたので先に行く、と言うと、何か困ったら連絡してくれ、と名前とホテルのTEL番号をメモしてくれた。いい男である。固い握手をして別れた。ウスパジャータの町は、規模としては石狩町の花畔くらいか(つまりすごーく小さい)。レストランと一体化した安宿に決めた。色白の眼鏡をかけたセニョリータが美人であった。鏡を見ると顔はひどい日焼け、青いTシャツは汗の塩でまっ白になっていた。ちなみに今日のサイクリング中に飲んだ水は3lであった。晩飯はメニューを見てもわからないので適当にこれ!と指さすと、出てきたのは偶然にもローストチキンであった。またしても神に感謝して、クリスマスイブを楽しんだ。初日にして体がボロボロになり、早々にベッドに倒れこんだ。深夜ふと目を覚ますと、外はクリスマスのパーテイで、こんな小さな町なのにえらく盛り上がっているようだった。(朝までやっていたようだ。)夜半から明け方まで蚊の攻撃にあい眠れず。


5日目:12/25(土) Uspallata 連泊
 夕べは一晩中蚊と戦っていたので10時過ぎまで眠った。今日も快晴である。この町は標高1750mあるので昨日より涼しい。北海道の真夏と同じくらいである。そういえば道中には木が1本もなかったのに、ここにはポプラがたくさんあって川原にも緑があって馬がいて、国境道路以外は未舗装で、北海道とそっくりだ。カフェでジュースを飲みながらハガキを書いたりしていると、日本人現る。手の日焼けがグローブの形で、すぐサイクリストとわかった。サンチアゴから走ってきたそうで、色々情報をもらえた。昼寝したりジュース飲んだりフラフラしたりして、気持ちよくてここが気に入ってしまった。昼飯をたのむと宿のおばさんが、村で一人だけという「英語を話せる人」を連れてきてくれた。


6日目:12/26(日) Uspallata (1750 m) − Puente del Inca (2720 m) 距離 83 km
 6:30起床してパッキング。朝飯を食べたいので宿の人が起きるまで待ってる。7:30ころやっと起きてきたじいさんは、おまえがゴソゴソやってるから目が覚めちまったよ、とでも言ってるようである。愛想のないアルゼンチン人に初めて会ったような気がした。タバコをすすめられて断ったとき初めてニヤリとしたのでホッとした。
 この町を離れるとまた、緑がなくなり岩漠地帯である。(道沿いには大きな川を茶色い水がザアザアと流れているのだが。)標高2400mのPta. de Vacasから先の山岳地帯はチリとの国境地帯として軍が管理しており、パスポートチェックの他に国境道路の通行証をもらう。車両の欄に"Cyclista"と書いてあるのだけわかった。この先所々に軍の駐屯所がありカメラを出すと大声で止められたのが残念。さてここから風向きが一転し、髪が抜けるかと思うほどの向かい風になり、遠くに雪山も見えてきて景色は最高なのだがバテる。プエンテ・デル・インカの手前でなぜかポツンとレストランがあり昼にする。そろそろ肉に飽きて胃がガボガボしておりサラダでもと思うが結局肉しかなかった。
 プエンテ・デル・インカは、南米最高峰アコンカグア山(6959m)登山の起点になる村で、一軒だけあるホテルに登山者が沢山泊まっていた。二つ星なので立派な宿である。宿のなかには山の写真や歴代の登山者のサイン類がびっしり貼られていた。私も今度来るときは登山にきたいと思った。国境にちかいせいか、支払はドルの方が喜ばれる。


7日目:12/27(月) Pte. del Inca (2720 m) − Cristo. Redentor (4000? m) − Los Andes (? m) 距離 >100 km
 朝食はパンと茶のみ、いつも質素である。昨日の烈風は止んでいたので、今のうちと思いサクッと出発する。ここまで来ると酸素が薄い事を感じる。毎日晴れだが空は一段と青く澄んできた気がする。昼前にラス・クエバス(3150m)着、ここがアルゼンチン領の最終地点であり1kmほどで国境トンネルに行ける。ここから分岐があり、ダートの道をさらに登るとクリスト・レデントールというアコンカグア山の好展望地に行ける。標高は資料によって4200m、3900mの2種類あってどっちが本当かわからない。
 軍人に、行っていいか確認し登り始める。勾配がきついのと標高が高いせいか力が全然入らなく、途中から8割方押しになる。途中2台の車に会ったが、「大丈夫か?何か欲しいものはあるか?」と聞かれ、そんなにしんどそうに見えたのだろうか。山脈の嶺線が近づいてくると風が強く、寒くなってきた。3時間近くも押し続けて眼前のアコンカグアやその向こうの雪を残した山々の景色が最高となった頃、目の前の道路に雪がどっかりと残っており、先へ進めなくなった。酸欠のせいか無茶苦茶しんどかったので、先に進めなくなって正直言ってとてもうれしかった。100m程先には山小屋のような建物が見えており、あそこが目指したクリスト・レデントールであろうか? チリとの終戦を記念して、大砲を鋳つぶして造ったというキリスト像をおがむことができなかったが、ここを今回のランの最高地点とした。
 改めて山々を眺める。うーん、すばらしい!この大きな景色と、達成感と孤独感をしばし満喫した後、いよいよ下る。押しとは言え3時間かけて登った道は長かった。国境道路とこのダートの間には、人間がいる所といない所という隔たりがあるように思った。道路に復帰後、トンネルの検問所に向かう。親切な軍人さんは、自転車は危ないからと、後からきたトレーラーに私をのせてくれるよう手をうってくれた。こうしてアルゼンチンとさよならである。トンネルは3〜4kmもあるように感じられた。確かにここは狭くて長くチャリでは危険だ。出口で降ろしてもらい、また走り出す。チリ側は舗装状況が少し劣るようだ。強烈な太陽と向かい風の中下っていくと、すぐにチリの税関である。1ドル=1アルゼンチンペソ=400チリペソのため、残金を両替すると札束ができてしまった。チリに入ると人々がチャオ!と声をかけてくれ、アルゼンチンよりさらに人なつこくなったようだ。国境から最初の街、ロスアンデスまでは60km以上もあるが、UPが1回あるだけ、と聞き走ることにする。どんどん高度を下げて暑くなり、腕はもうヤケドのようだ。ヘトヘトで街に夕方着き、最初に見つけたホテルに入り、個室は300ペソというので即決定したのだが、部屋を見てびっくり。2畳程度の階段の下のスペースで、天井は低く殺虫剤臭い。1回蹴飛ばせば壊れそうなドアは内からかギがかからない。まさに独房のような部屋である。針金を使ってなんとかカギを作った。街に出て、カフェでサンドイッチを頼むとスライス肉のはさまったのが出てきた。もう肉には飽き飽きだ。


8日目:12/28(火) Los Andes ー Santiago 距離 100 km
 昨日はもう輪行しちゃおうかと思ったのだが、あと1日走ることにした。500mlしか水をもっていないが、首都に向かうのだから店くらいあるだろうと思ったのが甘かった。低地に戻って暑い上に、ロスアンデスの街のあとは田園地帯が延々と続き店の一軒もない。300mUPの峠を一つ登るとまたトンネルで、道路管理のおじさんがトレーラーにのせるから5分待てという。結局1時間位待った。その間また旅の話などする。トンネルを越えると高速道路になっていたがチャリも通れた。やっと高速のわきにポツンと店があり、コーラを買ってボトルに詰める。サンチアゴまであとはひたすら走った。
 サンチアゴはさすがに都会でバスや電車で混雑している。学生の時のツアー最終日のような興奮を覚えた。ちょっとリッチな2つ星ホテルの前で迷ってるとホテルマンが出てきて、チャリを中に入れなよ、とさわやかに言ってくれるのでサクッと決めてしまったが、今までの中で最もきれいな部屋に通され鏡をみるとホコリまみれで、よく入れてくれたなと思った。今日は大して観光はせず、フロと2日分の洗濯をした。(今まで毎日フロと同時に着てた物を洗ってた。)夜、近くの日本料理店に行った。肉にまいっていた胃に久々の日本食はとてもGoodで、宿に戻ってからも余韻に浸っていた。


9日目:12/29(水) サンチアゴ連泊
 朝から観光に行く。広場でボヤーとした後モネダ宮(大統領官邸)に行くと機関銃をかついだ兵士が警備している。隣の軍の建物には全窓に頑丈そうな鉄シャッターがついている。チリはつい最近庶民の団結で民主政治を勝ち取った国で、国民の政治への意識は高いというが人々を見ていてもあまり感じられない(当たり前だが)。しかしこうした闘争のあとを見ると、この平和そうな広場の様子が貴重なんだなーと思った。昼にメルカド(市場)へ行き食堂でマリスカ(貝の冷スープ)を食べた。チリは海産物が豊富でうまいと聞いてたので楽しみにしてたのだが、この店はそれほどでもなかった。果物の量り売りなんかに寄って宿に戻り昼寝をしたが、起きると下痢になっていた。一度公園に出かけたが腹にピリッときて戻る。完全に下痢だ。薬飲むがきかず、本日は休養とする。晩飯もなし。


10日目:12/30(木) サンチアゴ3連泊
 本日も下痢である。旅の初めにサンチアゴ空港であった日本人に再会したのでお茶を飲みに行ったりした。腹が悪いのであまり動けず。街中の気温は43℃を示していた。


11日目:12/31(金) サンチアゴ4連泊
 今日はチャリで博物館に行ったり、地下鉄で遠くまで行ったりした。夜は大晦日のためレストランが閉まっていて探し回ってやっと一軒みつけた。昨日と同じく日本人と二人で深夜までフラフラした。割と静かで日本の大晦日と似ているかもしれない。


12日目:1/1(土) サンチアゴ=飛行機...
 今日で最後である。ホテルの兄ちゃんとも顔なじみになって、いろいろ世間話をして飛行機の時間まで暇潰し。もう一人年配のホテルマン(英語ができる)が、改まって「実はあなたにお願いしたいことがあるのですが」とおずおずと切り出したのでいったい何かと思ったら、「カラテの演武を見せてはくれないか」というので笑ってしまった。日本人はみんなカラテができて2mくらいジャンプできると本当に思っているようだったので、俺はカラテはできないがジュードーはできる、日本人はみんな強いんだよと言っといた。街の酒屋でワインを土産に買って、空港へタクシーで向かう。タクシーの運ちゃんは一般道を90km/hで飛ばしながら、後部座席の私の方を向いてしゃべり続けるのでちょっと怖かった。かなり早めに空港につき、また退屈で長〜い飛行機で、帰路についた。


<おわりに>
 アルゼンチンも人々はやたら明るくて、危険な目にあうことなく旅ができました。終盤で腹を壊して、動けなくなったのは残念でしたが、第一の目的のサイクリングは予定通りできてよかった。けどチリには行ってみたい所が沢山あるんで、もっと長くいたかった。ちなみに腹は帰国後2週間してようやく治りました。次の旅は、どこへ行こうかな。