'93 自転車世界選手権

by 松井 久(投稿日:22 Jan 1994)


 だいぶ遅くなってしまいましたが、世界選手権について報告したいと思います。
●代表になるまで
 先ず代表選考会が八戸で7/2〜4にありました。私の出場種目は4km個人追抜、ポイントレース、4km団体追抜、ロードレースです。
 7/2は朝から個人追抜の予選で4組目。結果は4分54秒で3番上がり。準々決勝は同チームの村岡さんと対戦、話し合いで決める。準決勝は同じく江原とあたり、彼は昨年の優勝者なので手ごわい相手でした。前半は若干負けてしまいましたが後半で追い上げわずかの差で下しました。決勝は雨の中で行なわれました。相手の安藤(ミヤタ)は最近めきめきと力をつけ、これまで余裕で勝ち上がってきているので、勝敗は初めからわかっていたようなものでした。結果も5分を切ることができず平凡な記録で2位が確定しました。なお、ポイントレースはアシストにまわり予選落ち、団体追抜は出ただけでした。
 7/4のロードレースは昨日の雨もあがり晴天で何よりでした。スタート前に荷物を積んだ車が補給所に行ってしまい手袋なしになってしまいました。そうこうするうちに出発。今日のコースは起伏が激しく距離も長いのでゆっくりした速さで進行しました。2、3週目で安藤が飛び出し、今中(シマノ)もそれに続きました。集団はそれをだまって見過ごし、二人の先頭集団は周回を重ねました。半ばを過ぎた頃、大門宏(日本鋪道)が満を持した様に追走に出て、それをシマノの住田と阿部が追い駆けるが二人とも力尽きて戻ってきてしまい、その後、大石(エアロセプシー)、鈴木(ブリジストン)、清野(ラバネロ)、中島(日本鋪道)らが追っかけ出したので、ここで行かねばと思って便乗する。先に今中が逃げているので私はひたすら後ろにへばりついていればよかったので楽ができました。やがて二人に追い付き8人の集団ができました。途中、中島がちぎれ、最終回で大石さんが単独アタックに出ました。これは6月のツールド中部と同じ展開でやばいと思いながらも誰もついていけず、次に今中がまた一人で行ってしまい、同チーム故に追うわけにもいかず、最後は5人、その中の2人は既に先頭交替には参加せず着争いを放棄していたので3人で3位争いになり私が得意のゴール勝負で3位を手中にしました。
 こうして、世界選手権の出場権を得ました。実際に走れるのは団体追抜とロードレースです。

●ノルウエー・世界選手権
 8/1〜7は松本、8/7〜9は福島県泉崎村でそれぞれ合宿して8/10にノルウエーに向けて出発しました。途中ストックホルム乗り換えでオスロには現地時刻では遅くに着いたのですが、高緯度故に日没にはまだまだ時間がありそうでした。空港の外でバスを待っていると日本人がやってきてオスロ市内の日本人経営の土産屋の宣伝をしてゆきました。冬期オリンピックのスピードスケート会場となるハマルに着いたのはもう11時過ぎ。みんな眠い目をこすりながら荷物の運搬をしました。自転車競技場はスケート会場内に急造したもので、オリンピックより一足早く使用したことになります。翌日競技場へ行き初めて見る板張りバンクとそのカントが45°もあるのに驚嘆しました。作ったばかりなので木の臭いがぷんぷんし、路面はつるつるで、こんなんで本当に走れるのかと思いました。練習で実際に走ってみて何とか走れましたが、交替で上がるときにはびびってしまいました。また半径が小さいので曲線部分になるとぐっと押さえ付けられる感じで、ひたすら落車しないようにとそればかり考えて走っていました。
 ハマルという町はオスロから北に150kmぐらいの湖のほとりにある人口3万人くらいの小さな町ですが、その周りがあまりにも田舎なので、その辺りでは大きな所です。ロード練習は本屋で1/5万の地図を買って走りましたが、ちょっと細い道を行くとすぐ未舗装になってしまうのには閉口しました。しょうがないので国道を行って同じ道を帰ってくるような形になってしまいました。ノルウエーの交通事情は感心するものがあって、交差点で人が渡ろうとしている時は必ず車が止ってくれる事と、日中でも点灯が義務づけられている事で、これは冬場の短い日照時間と、高緯度のための日没から暗くなるまでの時間が長い(太陽がかなり斜めに沈む)のも影響しているかも知れません。街道練習していて目を引いたのは、湖に注ぐ川の水が透明でなかったことで、まるでコーラが流れているようでした。これは一体何なのか結局分からなかったのですがそのうち調べたいと思います。
 朝食はホテルでしたが、食堂が湖に面していていつも湖を眺めながらで、毎日違う姿を見せてくれました。窓の下には噴水があるのですが、ある日見るとそこは泡だらけで直径5m程のケーキみたいになっていました。おそらく昨夜にアホな連中が洗剤でもぶちまけたのでしょう。そういえば昨晩は外がにぎやかだったような気がします。昼は朝のパンをサンドイッチにして持って行ったのを練習先で食べました。スーパーに入っても大したものは売っていないのでこれで十分なのでした。夜はホテルのレストランで食べていましが毎日同じような物ばかりなので街に出て探しました。といっても大した店はなく、中華2店とスパゲテイ屋を見つけたにとどまりました。ノルウエーといえば鯨と魚貝類を期待していたのですが、ハマルは西海岸からは500kmぐらい離れているのでその恩恵にはあずかれませんでした。そのかわりと言っては何ですが、ザリガニを初めて食べました。でもあまり旨くはなかってです。
 レースの方ですが、団体追抜では走路が250mと小さいために単独走行となり追い抜かれる心配はなくなりました。結果は一度つきそこねてち切れてしまい3人でゴールし4分26秒。これは一応日本新ですが、優勝したオーストラリアは決勝で4分3秒を出し力の差をまざまざと見せつけられました。ロードレースはオスロで行なわれました。朝早くハマルを発ちオスロでスパゲテイなどの食事をとり昼頃スタート。外人の中で走るのは久しぶりなのでかなり走り難かった。一つ目の上りは集団で越え下りの途中で前との間隔がつまってしまったのでブレーキをかけたら後輪がロックして、バランスを崩してしまい、何とか立ち直りましたが後輪大きく振れてフレームに当たる有様。直ちに交換するが集団は遥遠方に行ってしまいその後ちぎれた連中を吸収して集団を作ったりしますが、そいつらは所詮ちぎれた奴らなので足手纒いとなってペースは上がらず結局100km走った所で降ろされてしまいました。こうして93年世界選手権は終わりました。翌日のプロの試合はオスロに行かずにホテルの部屋でTV観戦しました。

●マレーシア・アジア選手権
 これに向けての合宿は一切ありませんでした。おまけに出発の日が国体期間とぶつかり国体には出れなくなってしまいましたが、その後出発日が変更になり国体とはぶつからないようになりましたが私は北海道車連の方針で欠場のままで、他の選手は国体が終わってから集合しました。何とも歯痒い状態で始まり、これがそのまま持ち越したような大会でした。
 10/29出発。会場のイポーは首都クアラルンプルから北に200km程の所にあり、成田からクチン、クアラルンプル、と乗り継ぎホテルに着いたのは零時を回っていました。途中のクアラルンプルでは国際線と国内線の建物が離れているのをしばらく分からずさんざんでした。マレーシアは隣の国々よりはましらしいけどもやはり雑然としており道は汚く、砂が浮いていました。ホテルはイポーでは一番いいらしいのですが客室は二人用のところを無理に補助ベッドを入れて三人で使わされ、便所兼シャワー室は異臭が漂っていました。朝、昼食はバイキングでそれも毎日殆ど同じで二週間は飽きてしまいました。おまけに各国チームが一斉に押しかけるので並ばなければなりませんでした。晩飯は中華とバイキングでしたがこのバイキングがまた朝昼と代わり映えのないもので、中華は量が少なく出てくるものは遅い、味は今一でまだバイキングの方が良かったという感じでした。マレーシアで良かった事はビールを除いて殆どの物の価格が日本の半額であることと、百貨店が夜10時まで開いている事。
 街道練習は日中の気温が高すぎるために早朝でないと大変でした。また夕方は4時頃にきまってスコールが降るのでそれまでに帰らないとえらい目に遭います。競技場は板張り250mですが室外なのでちょっと雨が降ると競技は中止です。夕方のスコールの後は気温も上がらないのでバンクは濡れたまま朝を迎え朝練習はできなくなり、完全に乾くまで使えないので当然競技の進行も遅れてしまい、プログラムの日程はあっという間に無意味になってしまいました。
 この大会で注目されたのはカザフスタンの参加でした。旧ソ連崩壊によりアジアにくり込まれたのですが、彼らはヨーロッパでも十分戦える選手もいて大いに苦しめられました。黄色人種の中で白人が混ざるのはアジアの大会ではない様な気がしました。
 競技の結果はあまりにも情無いので割愛させていただきます。記事などでは[ファンライド]を御参照ください。