ショートレポート: 冬ラン 旧甲州街道

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貝沢を渡る古道にて
by 宮村(投稿日:2 Apr 2023)

Map, Click to Expand 日程:2023/2/23(木)
参加:G(計画)、宮村、DAZ、浦野
コース:=橋本→相模湖→(旧甲州街道)→猿橋= (54.3km - 7.8h)

 ツーリング記録 参照
メモ:
 Gくんからの年明け第二弾案は、2月「旧甲州街道ラン」、「湘南・鎌倉ラン」他だった。2/12に、2/19前者開催予定になった。コースは橋本→猿橋だった。開催近辺で天気予報が変わり、最終的に2/23(木)になった。コースに関し古道歩きが入り、ゴールが猿橋から大月に延びる予定になった(当日最終的に猿橋)。にわか雨に対する準備が必要だった。ウエアについて冬用だが、アンダーを前回より薄くしようと思った。
 構成は、前半「津久井湖&相模湖」、後半「相模湖(与瀬宿)からの旧甲州街道」。印象が違いそうだった。前回同様、距離のわりに獲得標高が高いので、アップダウンが多く、体力消耗が予想された。


1日目:2/23(木)
コース:=橋本→津久井湖→相模湖→(旧甲州街道)→猿橋=
    旧甲州街道:与瀬宿→吉野宿→関野宿→上野原宿→鶴川宿→野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿→猿橋宿
参加:G(計画)、宮村、DAZ、浦野
天気:晴れ
距離:54.25km
獲得標高:1169m
走行時間:7h50min


*出発まで、橋本公園でお花見
 朝、外を見ると曇天だった。自分は京王線稲田堤駅で7時53分発橋本行きに南武線から乗り換えた。車窓から見える空が曇天から次第に明るくなった。ただ、富士山が見えず、山々の山頂から雲が棚引いていた。吹きおろしに会うかな、とか思った。8時19分橋本駅着、南口に出た。浦野くんが8時3分に到着しているはずだが何処だろう。9時ぐらいに全員出発準備完了だった。空は晴れ間が広がり始めていた。しかし、太陽が雲に隠れ、微妙に寒い。9時10分すぎにDAZくんリードで標高約125mJR橋本駅南口を出発。なお、今回コースが複雑で、しばしばGarminナビをもつGくんがリード。
 橋本駅西口線を10分弱走り、橋本公園でけっこう咲いている河津桜を堪能。

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JR橋本駅を出発 | 橋本公園の河津桜
*津久井湖北岸、三井(みい)・名手間突破、青色の鉄製つり橋
 橋本公園を出て、県道513号方面へ進んだ。「津久井湖」北岸の中沢地区に入り、「岳雲沢隧道(がくうんざわずいどう)」:通称「津久井トンネル」まで80mほど登った。途中、「津久井湖」が見えた。最初の登りにしては長め厳しめだった。トンネル後は、気持ち良い下りだった。県道515号に入る右折をやや行き過ぎた。狭い県道515号を進むと右に臨済宗建長寺派「三井寺(さんせいじ)」があった。
 さらに進むと10時ごろ、バリケードが現れた。その先は落葉が積もっていた。Gくんは、去年の春に通ったと、バリケードと法面の間を抜け前進。途中、散策する“おとうさん”二人、“おかあさん”一人に出会う。ご近所の方だろう。心配ない道なのだと思う。アップダウンを繰り返しながら50mほど上った。落石や積もった落葉に注意しながら上ったので体力・気力を消耗した。日差しが強まった。身体に熱がこもった。10時10分ごろ、またバリケード。「三井」地区と「名手」地区の間が通行止らしい。バリケードと法面の間が薄い鉄板と針金で厳重に閉められていた。抜けられない。しばし困惑。Gくんは、春も同じで自転車を持ち谷側のガードレール外に出て越えたとのこと。しかし危険。その時、先ほど会った“おかあさん”が戻ってきて「針金解き、鉄板開け、出入りしている」「閉める時、針金を厳重にネジっておくように」「管理者が時々来て、針金が緩いとより厳重にするので」と。親切な“おかあさん”にお礼を言って、指示に従い通過。(G記:自分が春に抜けた時のゲートは、もう少し先の崖が終わってからの場所にあったので、横を抜けるのに問題はなかった。今回のは横が崖なので躊躇した。絶対的なゲートを岡本と抜けたことがあるにはあるが、おばさんの助け舟は有難かった。)「名手」では標高220mほどの斜面に家屋が張り付いていた。屋内からの眺望、素晴らしいかもと思う。
 珍しい青色の鉄製つり橋まで60mほど降下。橋は緑系の山や湖に映え印象的だった。だが狭い。渡る際、軽トラックとすれ違うハメに。端に寄ると30-40m下の湖面が見え、自分はブルった。後で橋を調べると名前が「名手橋」、昭和39年完成、「かながわの橋100選」に入るとのこと。

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三井側ゲート | 名手側ゲート | 名手側へ脱出
※後で「津久井湖」、「三井寺」を調べてみた。
 「城山ダム」が1961年(昭和36年)着工、1965年(昭和40年)完成。同年「津久井湖」が誕生。同時に285世帯が湖底に沈んだ。主な区域は、「岳雲沢隧道」対岸の低い段丘域や相模川・道志川合流域の低地。地名は「荒川」、「沼本」。「三井寺」も沈むので今の場所に移されたとのこと。
*三ケ木(みかげ)~若柳、相模ダム、相模湖湖畔
 渡橋後、60mほど登坂、「三ケ木」地区に入り、60mほど下り「道志橋」を渡った。すぐ40mほど登坂、「若柳トンネル」を抜け、「桂橋」を渡るも、「相模ダム」を渡る予定だったので、戻り、右折、10時55分ごろ「相模ダム」着。ここまでの色々な登坂で消耗した感じ。10分ほど休憩。上着脱ぎ・補給食・トイレ。そこから「相模湖公園」に入り自転車を降り、湖ギリギリの小道を進み、11時20分前、「御供岩(ごくいわ)」が鎮座する広場着。標高約180m。5分強、撮影&トイレ休憩。Gくん曰く「JR相模湖駅はかつて与瀬駅という名だった」「御供岩は、相模湖ができる時に水没するのでここに移したらしい」。

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相模ダムで仕切り直し | 御供岩をお参り
※後で「相模湖」を調べてみた。
・「相模ダム」&「相模湖」:日本初の多目的ダム&人工湖。ダムは1940年(昭和15年)11月着工、敗戦直前に中断。1947年(昭和22年)完成。同時に「相模湖」が誕生。136世帯が湖底に沈んだ。主な区域は「与瀬」対岸の低い段丘。地名が「勝瀬(かっせ)」。ダムの目的が、軍需工業地帯への電力・用水供給強化だったが、間に合わなかった。
・間に合わせるための旧日本軍別計画:相模川・道志川合流点手前に「津久井堰提(えんてい)」を1937年(昭和12年)着工、1943年(昭和18年)に完成させていた(堰堤は堰き止める高さしかない)。同時に、堰堤横「取水口」→「津久井導水路(隧道)」→「津久井分水池」→「津久井発電所」&「用水路」を完成。目的をだいたいクリア。「分水池」、「発電所」は「新小倉橋」若干上流にある。「津久井堰堤」は今は「沼本ダム」に名前が変わった。全設備、補強されながら現役。
・行く前に知っておきたかったこと:ダム建設には、日本人に加え、朝鮮半島からの強制連行者約350人・中国からの兵士捕虜約300人が従事した。劣悪な労働環境により判明しているだけで犠牲者が83人。「相模湖公園」の「湖銘碑」に韓・中・日語で犠牲者名が刻まれる。今回事前調査していなく見なかった。ご免なさい。

※後で「御供岩」を調べてみた。
・呼び方:ここのは「ごくいわ」。「おともいわ」、「おそなえいわ」と呼ぶ岩も他地方にあるらしい。
・ざっくり物語:昔、「二瀬越」川岸で、御神体(光る石?)が漁業網にかかった。御神体は川岸の「大岩」に乗せられた。村は祀る場所を何度か替え結局「与瀬神社」にお願いした。「大岩」でも神事が行われ、「御供岩」と呼ばれるようになった。村は災いが無くなり栄えた。
・「二瀬越」:上述の「勝瀬」のこと。「与瀬宿」「吉野宿」間の街道は険しい坂道。楽したい旅人用に「与瀬」~「勝瀬」~「吉野」渡し船ができた。「勝瀬」は、二度瀬を越える場所なので通称「二瀬越」になった。
*旧甲州街道を始める前に
 相模湖、つまり「与瀬宿」から始まる今回の旧甲州街道(旧街道)は、Google Mapでは、国道20号(甲州街道)、「鶴川」手前から県道30号、「鳥沢宿」手前からまた国道20号(甲州街道)に相乗りし、時に旧街道だけショートカット(SC)のように出入する。我々は、国道20号・県道30号を走りつつ、旧街道SCがあれば優先的にそこへ入る。旧街道は時々途中で切れる。しかし、繋ぎ道=古道がある。そこを歩きで進む。古道は三カ所。「与瀬一里塚」手前の古道「貝沢」、「矢坪」・「新田(しんでん)」間の古道「座頭転がし」、「恋塚一里塚」後の古道「石畳」。旧街道が県道30号の区間、国道20号が通る地形は旧街道には無理そうな谷間。旧街道が中央自動車道(自動車道)と近いコースの場合もある。ただ旧街道は谷などあれば回るので自動車道の北へ南へ数回渡る。

*与瀬宿→吉野宿: 11:25ごろ標高約180m「御供石」→国道20→①旧街道→②11:30すぎ与瀬神社の鳥居前→自動車道南to北→③古道貝沢→④11:55ごろ約260m与瀬一里塚→約290m橋沢→降下、自動車道北to南→国道20→⑤12:15ごろ約190m吉野宿ふじや
 ①②旧街道に入り短い急勾配を高野山真言宗「金峰山慈眼寺」と記された石柱まで登坂。左折し「与瀬神社」鳥居前に到着。神社は中央自動車を越えた高台に鎮座するらしい。今回は鳥居前の手合わせにした。③④自動道下の歩道で散歩中の‘おとうさん’に道を確認していたGくんに従い山中へ。(G記:おじさんから話しかけられて、与瀬一里塚に自転車で行くなら下の舗装道で大回りすれば良いと。この先を山に入って貝沢を渡ると言ったら呆れられたようだ。)“クマ注意”の看板がある落葉道を若干登り、「貝沢」で小さな沢を渡った。獣道。自転車を担ぎ、沢へ降りた。木橋が狭く担ぎで渡ると落ちそうなので、沢に並ぶ石を渡った。道らしいところまで担ぎ登った。道をしばらく押すと「与瀬一里塚」に出た。

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与瀬神社の鳥居前
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貝沢/自転車持って木橋を渡れず、渡れる場所を探す
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貝沢を渡り | 担ぎ押し登り | 与瀬一里塚

 ⑤高野山真言宗「御嶽山観福寺」をチラ見し、国道20号と合流。関西中心の高野山真言宗寺院が狭い山間に二院あり興味深かった。「吉野宿 旅館ふじや」では、前に立つ小仏峠・藤野間の旧甲州街道マップ板を楽しんだ。次にDAZくんは資料館になっている「旅館ふじや」の中を偵察に。浦野くんは向いにあった「聖蹟」と記された石碑&説明板の方に。石碑は、明治13年天皇行幸の際、昼食などされた建物を示すらしい。

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吉野宿/旧甲州街道マップと再建された旅館ふじや
※後で「与瀬神社」を調べてみた。
 諸説ある。昔ここは相模川が荒れると土砂崩れに遭った。南から丹沢山系で盛んな「修験道」が伝播した。室町時代、住民たちは災害を鎮めるため、奈良吉野に鎮座する「修験道」本拠地「金峯山寺(きんぷせんじ)」(2016GWツアー紀伊半島7日目参照)に嘆願し、御神体「蔵王権現(ざおうごんげん)」の分霊を迎え、北岸(与瀬本陣あたり?)に神社を建立。周辺を奈良吉野域の地名に模し、大原、八瀬、吉野に替えた。時が経ち、大原→小原、八瀬→与瀬に。寺院は「修験道」と緊密な高野山真言宗に。災害低下。江戸時代に「御供岩」伝説がある御神体を合祀、今の場所に移設。災害が大いに沈静。実際は東国武士による土木技術などの発展によると思うが。
*吉野宿→関野宿→上野原宿: 12:20ごろ約190m吉野宿ふじや→①藤野駅前から旧街道→国道20→②関谷宿→約230m小渕界隈で旧街道→国道20→名倉入口で旧街道→③約180m境沢橋→④12:50ごろ約230m諏訪関所跡→⑤13時前 諏訪神社→自動車道南to北→疱瘡神社&塚場一里塚説明板→国道20→⑥13:15ごろ約270m上野原宿の昼食場所
 ①藤野駅前の駐車場脇から下る階段&狭いスロープで旧街道へ。階段後も右法面をH形鋼で崩れ止めしたような道をすり抜けたりした。しばらく走行し工事中の仮橋?になった。次にダートを上り、右JR中央線に沿う道になった。走っているとJR中央線を越える架橋が現れた。橋への激坂をエイ!と上り、渡橋、国道20号へ。
 ②若干進むと左に「関野宿」関連?の古民家があった。③「境川」を渡った。戦国時代、「武田」と「北条」がこの地域を取り合っていたが、型式上、この川が国境だったらしい。今は山梨と神奈川の県境。
 ④厳しい坂をいくつかターンしながら上り、諏訪関所跡着。江戸時代、通行の取り締まりなど行っていたらしい。
 ⑤「諏訪神社」着。今回ランの安全など祈願。

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藤野駅すぎのダート
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諏訪関所跡 | 諏訪神社 | 疱瘡神社と塚場一里塚説明板

 ⑥Gくんが予定した「成田屋食堂」さんに到着。ところがお客さんが来そうな祝日なのに本日休業。DAZくんが途中で開店を確認していた寿司和食「十五夜本店」になった。ここまでで距離を約6割、登った山が無いにも関わらず獲得標高も何と約6割稼いでいた。峠系とは何か違う消耗感。
※後で「疱瘡神社」を調べてみた。
 諸説ある。江戸時代初期、本神社は、北陸街道の「湯尾(ゆのお)峠」に鎮座する「孫嫡子(まごぢゃくし)神社」から「疱瘡神」の分霊を迎え成立した。「孫嫡子神社」は1/29「八菅神社ラン」で参拝した「八菅神社」の開祖、「役行者」と関係する。飛鳥時代「役行者」が「湯尾峠」で子が無い老夫婦が営む宿に宿泊。「役行者」は「如意輪観音」(にょいりんかんのん:全願いを叶える)像を老夫婦に渡し去った。老夫婦は運よく養子を授かった。彼は「孫嫡子」と呼ばれた。修行後、「湯尾」で「如意輪観音」をご神体に神社を建立、病気治療をした。神社は「孫嫡子神社」と呼ばれた。本神社に参ると疱瘡などが治ると朝廷が認めご神体は「疱瘡神」になった。
*昼食(十五夜本店)
 店内は暗めな昭和レトロ風。お店の‘おかあさん’が定食はここと壁を指す。全員アジフライ定食を注文。ただ自分以外は大盛。同じメニューなら早いと思ったが…。浦野くんは、うつらうつらしていた。早朝、「猿橋」まで運転してきたからだろう。お待ちかねの定食。ご飯は並でも大盛りに見えた。大盛は並より二回りぐらい多く見えた。だが食すとふわふわご飯だった。さすが寿司屋ご飯。Gくんは詰め詰めご飯だったら食べきれなかったかもと言っていた。シジミのお味噌汁が久しぶりだった。やさしいがちゃんとしたお味で微笑みそうになった。全員完食。14時20分ごろお店を出発。14時半ごろコンビニで補給食などストック。

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十五夜入口 | アジフライ定食(大盛り)

*上野原宿→鶴川宿→野田尻宿: 14時半ごろ約270m上野原宿→Y字路左の旧街道へ→県道30→約200m鶴川橋→鶴川宿石碑→左折し旧街道→約280m自動車道沿い→鳶ケ崎(とびがさき)橋で自動車道北to南→①15時前310m強 大椚(おおくぬぎ)一里塚跡→旧街道を外れ細道へ右折→自動車道南to北→旧自動車道跡沿い→②15時すぎ約330m白頭(はくとう)稲荷→旧自動車道跡沿い→旧街道→③15:20ごろ350m強 野田尻宿
 ①急坂を上ると「大椚一里塚跡」だった。石碑と説明板があった。説明では「大椚一里塚」は「鳶ケ崎橋」の近くらしい。なぜここに「一里塚跡」?と思った。②「白頭稲荷」が立つ旧自動車道跡横の小山の前に到着。旧自動車道跡では、オートバイの彼が技術練習中だった。小ぶりな神社に安全願いなどしたり、眼下の現自動車道を眺めたりした。③間口が広い古民家の街並みが続き始めたと思うと「野田尻宿」だった。「明治天皇御小休所址」石碑や「大嶋神社」と書いた鳥居を眺めつつ通過。だが色々な情報から神社は「犬嶋社」。点が消えたのだろうか?また、後で見直すとGくんが「野田尻宿」までに予定していた「長峰砦跡」をカットしてくれていた。

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大椚一里塚跡の説明板 | 白頭稲荷
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野田尻宿の道標 | ダートで高速の南側へ
※後で、「白頭稲荷」を調べてみた。
 説明板より詳しい情報は不明。ただ旧自動車道ではなく、現自動車道が2001年3月開通の際、移築したらしい。現自動車道は「長峰砦跡」もけっこう削った。複雑な気持ち。
*野田尻宿→犬目宿: 15:20ごろ350m強 野田尻宿→途中自動車道北to南また自動車道南to北→①15時半すぎ約420m「矢坪坂の古戦場跡」→②矢坪地区→③15:40少し前 茂みの中へ→④15:45すぎ約490m古道座頭転がし→新田(しんでん)地区→県道30→⑤500m強 犬目宿
 ①「矢坪坂の古戦場跡」説明板をチェック。②「矢坪坂」の狭い急坂を押して上り、途中から自転車に乗った。畑やお屋敷が現れた。だが“クマ注意”看板があり山間感。「武甕槌(たけみかづち)神社」の鳥居と山中へ向かう石段があった。神社は遠そうなので、鳥居前での手合わせにした。

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矢坪坂の古戦場跡説明板 | 急坂を上る | 武甕槌神社の鳥居前
※後で「矢坪坂の古戦場跡」、「武甕槌神社」など調べてみた。戦国感が色濃い。
・「矢坪坂の古戦場跡」:「武田信玄」と好敵手「北条氏家」のお父さん時代の戦。両氏が「猿橋」から「津久井」の間で争っていた。そんな状況下、1530年、「北条」勢2万人が進軍。「武田」はここの領主「小山田」勢400人が「矢坪坂」の上から対峙。彼らは多数の死者を出した。事情は不明だが「北条」勢はこれ以上進まなかったらしい。「矢坪」の「武甕槌神社」や「新田」の「丹勢(たんぜ)神社」が、戦死者を祀ったらしい。「武田信玄」の時代になり「矢坪坂」の東方「長峰」に砦を築き「北条」などの進攻に備えた。
・「武甕槌神社」:武甕槌は日本神話における三大軍神の一人。雷神とほぼ等しい。「鹿島神宮」の主神。
・「丹勢神社」:経津主(ふつぬし)を祀る。経津主は武甕槌と並ぶ三大軍神の一人。剣神。「香取神宮」の主神。ちなみにもう一人の軍神は建御名方(たけみなかた)。風神とほぼ等しい。諏訪大社の主神。
 ③④「矢坪」から茂みの中へ入った。自転車を押し茂みから出ると左が崖でけっこう下に県道30号が見えた。左セーフガードが弱々しい細道。キャー!ここが「座頭転がし」と恐怖しつつ自転車を押した。その後また茂みに入り、落葉の細道を押し上り「座頭転がし」&「この上 天王様」札が立つカーブに到着。けっこう汗だく。しばし撮影会。自分が一番怖かったところは「座頭転がし」じゃ無かった。Gくんは上の「天王様」祠まで登りたそうだったが、危険であきらめていた。抜けると平坦なダートになりほっとした。④「犬目宿」で一般家屋の前に立つ「義民犬目宿兵助生家跡」説明板などチェック。「犬嶋神社」があった。浮世絵で有名な犬目富士を見忘れた。天候の状況で見えなかったかもしれないが。

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茂みを出て | しばらく押すと | 左が崖の道に
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再び茂みを押す | 竹藪を抜ける | 座頭転がし
※後で「座頭転がし」、「天王様」を調べてみた。
・「座頭」:江戸時代における視覚障害者階級の一つ。幕府は、視覚障害者や他障害者の経済的自立のため、按摩、針灸、琵琶法師などを彼らの独占的職種とした。 
・「座頭転がし」:諸説ある。彼らの一部は特権で十分余裕があった。先導者を雇い甲州街道富士参りに行けた。彼らは先導者の鈴音を頼りに進む。ここはヘアピンカーブの山道。谷を挟む向かいまで行った先導者の鈴音で、足を踏み外し、転げ落ちたという事故がたまにあったらしい。
・「天王様」:「牛頭天王(ごずてんのう)」という伝染病などを退ける神様の略称らしい。

※後で「犬嶋神社」を調べてみた。
 この地域に、「犬目」の「犬嶋神社」、「野田尻」の「犬嶋社」に加え、「鳥沢」の「諏訪犬嶋神社」、「四方津(しおつ)」の「犬島神社」、「鶴島」の「犬嶋神社」、五カ所同等名の神社があった。秩父三峰神社の神犬信仰がこの地域にまで伝播していたが、関係あるか不明。
*犬目宿→鳥沢宿: 500m強 犬目宿→①甲州桃太郎伝説のぼり旗→②約560m今回最高点・恋塚一里塚→③旧街道→④16:10ごろ古道石畳→約540m県道30に出る→途中の狭く急そうな旧街道に入らず急降下→約320m国道20合流→鳥沢駅通過
 ①「犬目宿」を出て「宝勝寺」の階段近くで一時停止。次の古道「石畳」への入口確認だったと思うが、お寺の階段に立つ「甲州道桃太郎伝説」のぼり旗の内容に盛り上がった。②最高点のすぐ先に草が生えた盛土があった。「恋塚一里塚」だった。地味に思い即通過。Gくんが待つ、古道「石畳」への右折まで降下。Gくんは「恋塚一里塚」に気付かず通り過ぎていたとのこと。③④右折し旧街道を少し進むとほの暗く狭く落葉が積もる古道「石畳」になった。自転車を降りて進んだ。「石畳」はすぐ終わり県道30号に出た。時間の関係で、ゴールを予定の大月駅から猿橋駅に変更したのはここだっただろうか。

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石畳
※後で「甲州道桃太郎伝説」を調べた。
・物語「桃太郎」の発祥地:古代からの口承を編集した古事記の中の一物語から生まれたので、発祥地を特定できない、が専門家の通説。しかし発祥地を決めたがるのが人情らしい。主な候補は、西から岡山県総社市、香川県高松市、奈良県磯城郡、愛知県犬山市、山梨県大月市、岩手県紫波郡。
・岡山発祥が強い理由:岡山に上記物語の主人公「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を祀る神社が鎮座するから。古事記が先か神社が先かなど、色々決め手に欠けるらしいが。
・大月のアピール:物語に関係する古い歌が出てきた。関連する地名・場所がとても多い(若干こじつけと言われるも)。大月駅観光案内所で昨年から「大月桃太郎伝説の里めぐりMAP」を無料配布。
・「甲州桃太郎伝説」の内容:諸説あるが、https://www.tazunearuki.info/momotaro/ootsukimomo.htmlが分かり易いかも。
*鳥沢宿→猿橋宿: 鳥沢駅通過→時々旧街道に入る→①16:35ごろ旧街道に水路→国道20→②信号宮谷入口からの旧街道で水路&トンネルに遭遇→国道20→③旧街道→④16:40ごろ猿橋→⑤国道20→⑥17時過ぎ猿橋駅
 ①入った旧街道が「宮谷川」に当たり消滅した。川には水路が架かっており何だろうということになった。一時撮影会。②旧街道を通過時、白っぽいシート屋根?に覆われた水路と並走した。国道20号に入る際、上にトンネル口遺構があった。それぞれ何でしょうねという話になった。

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宮谷川に架かる水路橋
※後で水路とトンネルを調べた。
・「宮谷川」の水路①、旧街道横の水路②:「鶴川」支流に建つ「八ツ沢水力発電所」用の水路。「猿橋」から約2km上流の「桂川」取水口から約14km水を流す設備。1910年(明治43年)着工、1914年(大正3年)完成。現在も稼働する国指定重要文化財(建造物)。20カ所からなる構造物群。水路①は「第三号水路橋」、水路②は「第二号水路橋&第二号開渠(かいきょ)」。自転車で走っている時、水路①が、水路②より上にある気がしたが(自分だけか)、地形による錯覚。どれも標高約310m。
・あの時「琵琶湖疎水」の別名の話が出ていた。別名に「山科疎水」があったが…
・国道20号に入る際、見えたトンネル口:現在のJR猿橋駅・鳥沢駅間は、鳥沢駅手前で「桂川」渡るが、1968年(昭和43年)までは「猿橋」で「桂川」を渡っていた。その時使われていた「大原隧道」の遺構。そこから橋梁・国道20と旧街道間の築堤・橋梁・次のトンネルが続いた。「大原隧道」反対口は、「猿橋」の左崖にある。
 ③④右折し旧街道に入り、猿橋中学校入口を右に見ると左に「猿橋」降り口があった。階段を降りると「猿橋」が架かっていた。けっこうな峡谷で若干ドキドキ。橋の上でしばし撮影会。

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猿橋

 ⑤⑥「猿橋公園」駐車場に車を停めている浦野くんと公園へ入る右折でお別れし、若干走行、「JR猿橋駅」北口に無事到着。寒さや向い風が無く良かった。DAZくんは夜の寒さ対応か、タイツを重ね履きしていた。3人とも17時58分立川行に乗車。座れた。GくんとDAZくんは八王子で乗り換え、自分は立川まで行った。

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JR猿橋駅北口

【浦野コメント】最も印象に残っているのが貝沢での「沢渡り」だ。何十年(?)か前、Gokiさんと二人で山の中の道なき道を自転車を担いで登ったことを思い出した。その時以来のとんでもないランになりそうだとビビったが、その後は座頭転がしや石畳など、雰囲気が残る旧道を楽しく辿ることができた。(G記:ご指摘の山担ぎランは、たぶん1997年の小河内峠ランのことだと思います。

【DAZコメント】自分では発想しえないようなプランで、サイクリングの楽しみ方に新しい視点を与えてもらった感じがします。押したり担いだりで当日は大変でしたが、後から宮村さんのレポートを読んだりして味わいが深まってくる感じの企画でした。旧街道沿いの古民家などの佇まいや、見かけた人々の姿にも、なんだか古い時代の温かみを感じながら走りました。

【Gコメント】当初は昨年秋の雛鶴峠ランで行けなかった雛鶴神社2へのリベンジ企画として藤野→雛鶴→笹子のコースを検討。そこから色々考えてこの企画にたどり着いた。事前チェックのおかげで旧甲州街道を細かくトレースでき、楽しみにしていた古道や石畳を無事楽しく通れたことには満足。ただし、担ぎ押しや、分岐後いきなりアップなど、思いの外大変だった。まあ、二度と無い企画なので許して頂戴。電車の便を考えて大月解散としていたのに、最後は意欲エネルギーが枯渇してしまい、猿橋までに短縮。ご不便をおかけしました。


関連リンク:
 2022年 春ラン(桜) 巌道峠 記録
 2023年 冬ラン(ロウ梅) 八菅神社
 2022年 秋ラン 雛鶴峠